自分の中で原型を留めていない崩折れたネガフィルムたち。 もう振り返らない、振り返りたくもない、今の自分が好きだし、それで良いと思っていた。 けれど、先日母が、結婚式の時の写真を所望してきたので、久しぶりに写真を探した。 なかなか出てこないアルバム。目眩もするし、疲れているし、もしかしたら身体が拒否していたのかもしれない。 でも、出てきた写真を眺めていて、ついでに出てきた、大学の時の写真や、中学校や高校の時の写真を目にして、どの時代も、どの時も、しっかり生きてきたんだと感慨を新たにした。 わたしの中では、嫌な思い出しか残していない。楽しい思い出も勿論あったのに。 その楽しい思い出が、きちんと証拠のように写真に残っている。 会社では遠慮ばかりしていたということの思い違い。 飲み会で目を見開いてふざけているわたしがいる。 大学のクラスでは、大人しかったと記憶していても、 写真では楽しそうにヘンなポーズをとっている。 記憶なんて、全然アテにならないもんだ。 勝手に可哀想と決め込むのも勝手だけど、 どうせなら、ここまでやってきた自分を褒めてあげようと感じた。 それと同時に、 決して一人だけの力で来れなかったということも、写真は教えてくれた。 わたしと会話してくれたみんな。から始まり、 嫌な上司だって、仕事を教えてくれたじゃん。 わたしをいじめた同僚のあの子だって、きちんと辿れば、あの喧嘩の原因だって、 今思えば、わたしが悪かったんだよ。 大人になればわかることも、あの時はわからなかった。 相手も同じだった。 しょうがなかったことがいっぱい。その時はしょうがなかった。 確かなことは、 あの時、精一杯のことをお互い選択した結果だから、 相手も自分も責めるなってことと思う。 過去に大きく○をつけて、頭をいっぱい下げて感謝したら、 前に進める。 あの時のすべてが今の自分をここまで押してくれた。 良いことも嫌なことも、間違った認識も、消したいと思う過去も。 過去を癒して今の自分を好きになるのではなく、 今の自分を無条件に愛して、過去の様々なことにも手を振りたい。 過去が言っている。 もう終わったことだから忘れていいよって。 無理に思い出す必要もない。 だって、認識自体が、歪んでいるから。 それを写真が教えてくれた。 過去を改竄して今の自分を正当化するのではなく、 正当化する必要もなく、わたしたちは過去からも未来からも愛されている。 それを知ることだと、改めて思ったんだ。 もし、 過去の写真を眺めて、その時の自分が寂しそうだったら その写真の自分に対して、今の自分から、いっぱい愛を送ってあげたらいい。 頑張っていたね。苦しかったね。 でも、わたしはここまで来たから、未来のことは心配しないでって。 色んな形で、今が愛されていることを、もっと認識していきたいと思いました。